もうすぐ3歳になる息子と一緒に遊びにでかけると、必ずと言っていいほど、石ころを拾おうとします。
「あ!いし!」
と言ってそこらから拾ってくるんですが、私は「もう!石ころはいらない!」と言って元にあった場所に戻すよう促します。石ころ、いりますか?いや、そもそも私たちのものではりあませんからね。
でも仮に、息子がダイヤモンドやサファイヤなどを拾ってきたらどうでしょう。
「こんな高価なものを拾ってきてどうする!落とした人が困っているだろうから警察に届けよう」となりますよね。
困っている人を助けることはいいことです。
しかも拾い主はいくばくかのお礼をいただくことも。
もしかしたらムフフ・・・なんて発想にもなるでしょう。正直なところ。
「石ころはいらない」「宝石だったら拾わないと」と考える私。
ここで明らかになる点は、モノの価値を「需要と供給によって変化する価値で判断している」ということです。
石ころはそこらにたくさん落ちています。
1つ拾って持っていっても誰も文句は言わないでしょう。
でも宝石が落ちていることはほとんどありませんし、原石を丁寧に磨いて大切に作られたものは数が少ないことから、お値段もグッと高くなり、宝石店から持っていこうものなら警察に捕まります。
しかし石と宝石、どちらが皆さんの生活にとって欠かせないものですか。
私が子どものころ、父が日曜大工でコンクリートを作ったとき(日曜大工ですることなのか?)、セメントにはホームセンタで買ってきた小石を混ぜていました。「どうして石を混ぜるの?」と聞くと、「コンクリートがしっかり硬くなるなるために必要なんだ」と言われた経験があります。
そう考えると、「いらないから捨てなさい」というような石ころが、私の生活している地面を支えている。
歩くときも走るときも、自転車に乗るときも車を運転するときもずっとそう。
気づかないところで実は石ころに支えてもらっているのに、宝石の方が高価だから大切にしないとと思ってしまう自分がいるわけです。しかも拾ったらお礼がムフフ・・・なんて考えまでする。なんと恥ずかしいことでしょう。
息子がいつも「あ!いし!」と言って大切そうに石ころを拾う姿は、「私の物事の見方が誤っているぞ」と教えてくれていたのかもしれませんね。
本願寺鹿児島別院 千羽顕信
