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50「人のふり見て我がふり直せ」

 上の言葉は他人の行いをただ眺めるのではなく自分の行いを省みるご縁としなさいという意味だと聞いていますが、自分を省みるのは本当に難しいことです。

 他人の事はよく見えても自分の姿はなかなか見えにくいものです。また、自分の行いを省みたつもりでもできていない事が多々あります。

 

 先日、甥と話しをした時でした。甥は学生の時分でその時は学校の宿題に行き詰まり休憩をしていました。今の学生がどんな事を学んでいるのか知りたかったので色々質問していると「勉強しても勉強しても覚える事が多すぎて大変だよ」と甥はため息混じりに言います。

 学生は学ぶことが本業と言いますし、学ぶ内容は座学だけでなく体の動かし方や人間関係など山ほどあります。社会に出る前に学べるものは学んだ方がいいと思った私は「頑張りどころだね」と声をかけました。甥は「そうだね」と言ってまたため息をついていましたが、その姿に学生時の自分を思い出しました。

 私も学生の時、覚えることの多さに頭を抱えていると周りの大人から頑張りなさいと声をかけられました。思い返してみるとその『頑張りなさい』の言葉は当時の私にとって欲しくない言葉でした。「頑張っているのにこの上どう頑張ればいいのか。頑張れではなくお疲れ様と言ってほしい。」と思っていました。

 それを思い出すと私が甥にかけた言葉は自分がかけられて嫌な言葉でした。言われた相手の気持ちが分かっていたつもりなのに相手の立場になって話すことができていませんでした。

 

 親鸞聖人は私たちの姿を「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」とお示し下さいました。

 私たちはこの命終える時まで自分中心な見方から離れる事ができないが故に相手を傷つけ自分も傷つける生き方をしています。そのお言葉が自分の姿に重なりました。

 

 しかしそのような私たちに寄り添ってくださるお方がいます。阿弥陀様は私たちに寄り添い、ともにお浄土へ参ろうとはたらき続けてくださいます。それは自分本位なものの見方ではなく相手と同じ目線に立って思いを分かち合ってくださるお姿です。

 阿弥陀様のお姿を聞かせていただきますと自分本位であった私の姿が見えてきます。どこまでも行っても私の本質は変わらないかもしれませんが阿弥陀様と同じようなあり方をしたいと願わずにはおれません。

「人のふり見て我がふり直せ」と言いますが、阿弥陀様のお姿から自分の姿を省みる日暮らしを送らせていただきたいものです。

 

阿久根市 西徳寺 大草真教