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46「大丈夫あなたの命が見えているよ」

コロナウイルスの分類が5類になり、世の中は以前の状況を取り戻しつつあるようです。それはそれで良いことですが、私たちは過ぎてしまうとすぐに忘れてしまうものですね。私自身への問いかけも含めて、今回はコロナ初年度のお盆に書いた原稿を今一度味わってみたいと思います。

 

大丈夫あなたの命が見えているよ

誰も思いもしなかったウイルスによって私たちの生活はすっかり変わってしまいました。お寺を取り巻く環境も随分と変わりました。家族だけ4・5人でのお葬儀が増えましたし、御法事も規模が小さくなるだけではなく、御法事自体が中止になることもあります。

仕方がないことと頭では理解できても、私たちの心はそう簡単に納得できるものではないですね。

「親の葬式にすら帰ることができずに申し訳ない。」と涙を流す方がいらっしゃいます。

「子どもにも親類にも会えず、寂しい最期だったのでは。」と申し訳なさに押しつぶされそうな方がいらっしゃいます。

「こんな勤め方で大丈夫だろうか。」と不安になる方がいらっしゃいます。

私たちは人としてこの世に生かされている身でありますから、どれほど想いや願いを持っていたとしても、一たびこのような状況になると、大事な方の下に駆け付けることすらできなくなってしまいます。願いはあるのに、その願いの通りにはいかない現実に向き合う時、私たちは苦しみ、悲しみ、悔しい思いを抱えていかなければなりません。

自分一人の抱える苦しみだけでも大変なのに、それを誰も分かっていてくれないとなると、希望も持ちづらくなってしまいます。自粛ムードの中で、一人で誰にも思いを語ることができずに生活をしなければならない方の不安はどれほどのものでしょうか。この状況を救済しようと国もいろんなことをやっていますが、皆さんはそれに安心してらっしゃいますか。私はとても不安です。やってることが良い悪いということではなくて、ここで言われている救済の対象に、私は入っているのだろうかと不安になってしまうのです。「私の命や生活はちゃんとあなたの視界に入ってますか?」と感じる時、私たちは漠然とした不安に晒されながら日々を過ごしていかなければなりません。

このように、世の理不尽さに振り回されながら生きていかなければならない私たちの姿を『よくよくご存じ』の方がいらっしゃいました。この私たちの苦しみを『我がこととして悲しまれた』方がいらっしゃいました。その私たちを『何としてでも救いたいと』願って下さった方がいらっしゃいました。『必ず救う。我に任せよ』と誓って下さった方がいらっしゃいました。その方は、『南無阿弥陀仏』という救いの仏様となられて私たちに働きかけ続けて下さっています。

会えずに死を迎えなければならない寂しさも、会えないまま別れていかなければならない悲しさも、阿弥陀様はすべて知っていらっしゃいます。知っているからこそ、死を迎える命も見送る命も、どちらも丸抱えにして救い取らずにはいられなかったのが阿弥陀様でありました。

「寂しくはないよ、私が一緒だよ。」と『南無阿弥陀仏』と寄り添って下さいました。

「あなたが帰って来られなくても大丈夫だよ。私があなたの下へ行くんだよ」と『南無阿弥陀仏』と呼び掛けて下さいました。

8月を迎えお盆の時期がやってまいります。例年と違い、遠方から子や孫や親類が一堂に集まってのお盆は難しいかもしれませんね。たとえ皆で集まることができなくても、『南無阿弥陀仏』とお念仏を頂くとき、遠く離れていても私たちは阿弥陀様の救いの中に今日もともに生かされる命でありました。           合掌

 

南さつま市 顕證寺 藤直亮